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秀頼は大坂城に留まり摂津・河内・和泉

1603年(慶長18年)に徳川幕府が成立した後も、秀頼は大坂城に留まり摂津・河内・和泉を支配していたが、1614年(慶長19年)の大坂冬の陣で家康によって構成された大軍に攻められ、篭城戦を行った。そして、その講和に際して惣構・三の丸・二の丸の破却が取り決められ、大坂城は内堀と本丸のみを残す裸城にされてしまう。秀頼は堀の再建を試みたために講和条件破棄とみなされ、冬の陣から4か月後の1615年(慶長20年)、大坂夏の陣で大坂城は落城し、豊臣氏は滅亡した。

落城に際して灰燼に帰した大坂城は初め家康の外孫松平忠明に与えられたが、1619年(元和5年)に幕府直轄領(天領)に編入された。翌1620年(元和5年)から2代将軍徳川秀忠によって大坂城の再建が始められ、3期にわたる工事を経て1629年(寛永6年)に完成した。

徳川氏の大坂城は豊臣氏の大坂城の石垣と堀を破却して、全体に高さ約1メートルから10メートルのの盛り土をした上により高く石垣を積んだので、豊臣大坂城の遺構は地中に埋もれた。また、天守など建物も構造を踏襲せずに造り変えられた。
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徳川氏の大坂城は、城郭の広さは豊臣時代の4分の1の規模になったが、天守は豊臣氏のものとは位置も変え、総床面積から高さまで豊臣氏の天守を越えるものが上げられた。大坂城をより豪壮な城郭として全く新しく築くことで、豊臣氏の記憶を封じ込め、かつての豊臣氏の勢威を凌駕する徳川氏の威信を日本全国に示そうとしたものといわれている。

幕府直轄の城である徳川大坂城の城主は徳川将軍家の歴代将軍自身であり、譜代大名から選ばれる大坂城代が預かり、2名の大坂定番と4名の大坂加番が警備を担当した。江戸時代にはたびたび火災による損傷と修復を繰り返した。特に1665年(寛文5年)には落雷によって天守を焼失し、以後は天守を持たない城であった。

江戸末期、慶応3年12月9日(1868年1月3日)に発せられた王政復古の大号令の後、江戸城から追われた前将軍徳川慶喜が大坂城に移り、居城していたが、慶応4年1月3日(1868年1月27日)、旧幕府軍の鳥羽・伏見の戦いでの敗北によって慶喜は船で江戸へ退却し、大坂城は新政府軍に開け渡された。この前後の混乱のうちに出火し、城内の建造物のほとんどが焼失した。

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2009年05月31日 08:01に投稿されたエントリーのページです。

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